2011年3月27日日曜日

083. 歴史(と嫉妬)

歴史家または歴史を扱う小説家の、その丹念な調査と、その想像力に対して、僕は敬意を払うと同時に、一抹の嫉妬心を感じてしまう。
その故は、一に彼らが恣意的に選ぶ出来事、人物は、間違いなく「歴史的意味」を持つからであり、二に彼らはその出来事の結末を知った上で考察できるからである。

一方、我々は、あらゆる歴史の最前線にいながら、自らの行為が招く結末すら知り得ぬか弱き存在である。また、その大半は「歴史的存在」になり得ない卑小な存在でもある。ましてや、写真など、悠久なる歴史に対して芥に等しいほんの一断片に過ぎず、それに対して熱中することなど可笑しいことなのかもしれない。

しかし、冷静になって考えてみると、僕たちの「人生」というものは、いかに「写真的」であることだろうか。生きている限り、僕たちの人生に「結末」はなく、また、体感として存在するのは「一瞬一瞬」である。

その先は分からない。

それが体感する人生そのものであり、写真的である。
だからこそ、切実である。

, listening to nothing.

2011年3月26日土曜日

082. 中国桂林(覚書)






3月18日から22日までの5日間、中国桂林へ行ってきた。
以前から計画していた旅行とは言え、地震の混乱が冷めやらぬうちの旅行となり、なんとも複雑な心境だったが、ここでは覚書を淡々と書いておこうと思う。

【印象】
  • 成田空港は平日の午前中にも関わらず、長蛇の列だった。外国人が多く、恐らく「国外退避」が目的。空席待ちのカウンターがあれだけ込み合っているのは初めて見た。
  • 中国でも、日本の大震災とそれに伴う福島原子力発電所の事故と復旧作業は注目されるニュースとなっていた。同じく、大きな扱いで報道されていたのは、リビアへの空爆だ。
  • 旅先、という意味で桂林は魅力的。風光明媚な場所である。
  • 食事は案の定、うまい。安くてもうまい(2人で3皿を頼んでビールを飲んでも、85元程度=85×13=1105円)。
  • 人は、日本で持たれている印象よりも、ずっと優しかった。特に若い人はおせっかいとも言えるくらい親切。
  • 桂林市(Guillin)から陽朔(Yang shuo)という街まで、灕江(Li river)という河を下って行くツアーに参加した。このツアー、外国人用(英語ガイド)と中国人用(中国語ガイド)があり、地球の歩き方などでは外国人は外国人用のツアーしか参加できない、とされている。しかし、実際は、どちらでもよい。外国人用が520元に対し、中国人用は260元だったため、中国人ツアーに参加してみた。要は景色が見れて、写真が撮れれば僕としては満足なのである。参加してみると、中国人30人程に対し、外国人は僕たち日本人2人とイタリア人1人だけだった。中国語を全く理解できないし、中国人も英語をほとんど解さないので、身振り手ぶりのコミュニケーションだけだったが、川下りの間中、ずっと「あっちが見所だ。ほら!」とか、「写真撮ってあげるよ!」とか、とにかく親切にされる。他国と比べても、いや、日本と比べても、結構いい人率が高いように思った。
【情報】
  • 円高が進んでおり、1米ドルおよそ80円だった(1日前の3/17には、一時期77円台と史上最高値)。同じく元に対しても円高となっており、1元はおよそ13円(3/16にはおよそ12円まで円高になっていた)。
  • 宿泊費は季節によって激しく変動するようである。3月はオフシーズンで、大体、公称価格の半額。三つ星ホテル(と言っても海外の三つ星と意味が異なる。中国は国家観光局が☆をつけており、1つ星から5つ星まである。三つ星ホテルは、普通の中級ホテルである。)で、大体、230元程度だった。(通常、500元程度)
  • ホテルの作りは、広い。欧米なら欧米人自体の体格が大きいため、必然、部屋も大きいのは理解できるが、中国の広さは、体格が日本人と同程度なのに、部屋は広いのである。結構、贅沢。大陸だからかもしれない。
  • 3月の桂林は、手元のデータでは最低気温10.4℃、最高気温16.7℃だが、実際はそれよりも少し寒いくらいだった。日本と同じ恰好で行く方がよさそう。
  • 3月は雨期の手前くらいのはずだが、実際は毎日どんより曇っていて、結局現地3日間のうち、晴れたのは真ん中の1日だけ。とはいえ、「小雨の桂林が最も美しい」と言われるように、桂林に関しては、小雨もある程度OKだと思う(特に写真としては)。また、一日だけだが、晴れてくれて本当に良かった。晴れの桂林もまた美しいのである。
  • 今まで、ざっくりと「桂林」という言葉を使ってきたが、実際に、日本人がイメージする「山水画のような山が、河の両岸ににょきにょき生えている風景」は、桂林よりも南側から本格的に始まり、陽朔という街の付近まで続いている。(より正確には、陽朔より南、というか下流の福利までも続いているらしい。)
  • 旅程は、1日目:成田(午前9時半発)→広州→桂林(夜18時着)、2日目:桂林→灕江→陽朔、3日目:陽朔→興坪(Xing Ping)→陽朔、4日目:陽朔→世外桃源(Shang Ri La)→桂林、5日目:桂林→広州→成田
  • 桂林らしい風景を存分に楽しみたければ、是非、興坪へ訪れてほしい。まず、陽朔から興坪へ行く途中の山々の景観が素晴らしい。あの山々は、灕江沿いだけにあるわけではなく、かなりの広範囲にボコボコと存在しているのだ、と理解できる。興坪では、きちんと値切って竹の筏(いかだ)に乗ろう。と言うのも、桂林からの船の川下りだと、ある程度スピードが出た状態で風景を眺めることになるが、筏であればゆっくりと楽しめるし、落ち着いて写真も撮れる。陽朔から興坪へは、バスで7元=91円。竹の筏は1時間くらい乗っていたと思うが、1人40元=520円。(60元から軽く値切って40元となったが、もっと頑張れば安くなるはずである。)
  • 興坪では、ラオジャイ山という山に登った。桂林のあのとんがった山の一つと思ってもらえればよいが、最後、まさかの「はしご」で登る区間があり、登頂は断念した。あと、10mくらいだったのだが、完璧な崖を、1眼レフ二台を持って、はしごで登る気にはなれなかった。
  • ご飯はうまい。とにかく色々な炒め物や食材があり、しかも安く、どの店に入ってもほとんどはずれがない。台湾と同じだ。
  • 興坪で「土鶏」というメニューがあり、なんとなく頼んでみたのだが、注文を受けた店主のおばちゃんがおもむろに店の外に出ていった。しばらくすると、茶色い鶏を鷲掴みにして帰ってくるではないか。「・・・まさか。」大抵の品は、10分も待てば出てくる。しかし、この品だけは中々出て来ない。30分は経過しただろうか。この待ち時間がリアルなのである。おばちゃんが持ってきたのは、優しい味のする白湯スープ。案の定、鶏鍋であった。ハーフで注文していたのだが、35元である。つまり、455円。マックのバリューセットより安く、締めたての鶏が食べられる国、中国。なんともすごい食文化だ。
  • 新鮮、安い、旨いの三拍子が揃った中華料理(広東+四川+桂林料理)だが、日本食の方がいいなと思った点もいくつかある。まず、麺文化。日本のラーメンは、米麺を中心とするコシの弱い中国の麺料理とは一線を画したものだ。スープのバリエーションや風味の深みをとっても、日本のラーメンは奥が深いと思う。
  • 次に、米。中国の米は、蒸して作っているということもあるだろうが、結構、弾力に乏しく、またちょっとパサパサしている。日本の米のようなモチモチした弾力感はないのである。最近、中国の富裕層を中心に日本のコシヒカリが人気らしいのだが、それも頷ける話だ。
  • 次に、ビール。青島ビールや他の中国産ビールも飲んだのだが、全体的に、「薄い」印象だ。ラベルを見ると、アルコール度数が3.6%以上、となっている。日本のビールは大体、5.5%程度。もちろん、「3.6%以上」なので、実際に何%なのかは分からないが、恐らく、日本のビールより実際に「薄い」のだろう。このため、ソフトドリンクのようにどんどん飲めてしまうが、料理が毎回多いために、飲みきれないことも多い。(瓶で出てくることが多いので、2人で二本頼むと結構きつい)
  • 最終日、お金が割と余っていたので、シェラトンホテルの中華料理店に行ってみた。日本では到底ディナーに行く気にはなれないような高級店だが、これだけ物価が安ければ何とかなるのではないか?と目論んだわけだ。案の定、安い。メイン2つ、スープ2つ、ビール3本、ココナッツジュース1杯で、459元=5967円。日本の半額〜1/3くらいかと思う。しかも、中国の琴の生演奏が行われていた。その上、客は僕たち2人だけなのである。なんだか贅沢なような、奇妙なような空気だったが、拍手を繰り返していると奏者の女性は笑顔で応えてくれる。最後の一曲では、日本の曲(「北国の春」昭和52年に発売された遠藤実の曲で、アジア全体でヒットしたらしい)までやってくれるというサービス精神。驚いてしまった。そして、感謝である。
  • 英語は、中級ホテルには一人くらい通じる人がいる。その人以外は、ほとんど通じない。
  • 桂林市内では、是非、芦笛岩(ルーディーイエン)という鍾乳洞に行ってみてほしい。これだけスケールの大きな鍾乳洞は日本では見たことがない。高さ19m(3階建ての建物より高い)、幅40mの巨大なドームが岩山の中にあり、凄まじいスケールの奇岩が見られる。ライトアップの仕方があまりに色とりどり過ぎて残念な感じなのだが(ある意味こういうところにも異文化を感じるが)、鍾乳洞自体の自然の造形美は間違いなく圧倒的だ。日本のように鍾乳洞の中が狭くないので、三脚も立てられるし、危なくもない。現地で何となく目について行ってみたのだが、思わぬ収穫だった。
  • 中国はスケールの大きさが半端ではない。陽朔では、水上劇『劉三姐』を見た。これは、映画「HERO」や「LOVERS」で有名なチャン・イーモウという監督が演出した劇で、出演者は、総勢600人を超え、かつ、夜の桂林の山々をライトアップし、さながら「北京五輪のオープニング」と言える程の巨大なスケールのものだった。奥行きの距離感が半端ではなく、極端な表現かもしれないが、「水平線の向こうから人々がやってくる」ような場面もある。スペクタクルという言葉は、このような状況のためにあるのではないか、と思ってしまった。ちなみに、北京五輪のようだ、と意図的に書いてみたが、実は北京五輪のオープニング自体もチャン・イーモウ監督が指揮していたので、同じテイストで当然といえば当然である。ちなみに、最も安いC席が150元、B席が190元、屋根付きのA席が400元だった。(中間マージン含む)僕はB席を選んだが、大体、焦点距離24mm程度で全景が撮れる感覚だ。実は、一番高いA席が最も舞台から遠いのだが、それは舞台を俯瞰するためのようである。劇をやる方がスペクタクルであれば、観客の数もスペクタクルで、目算で1500人は上回っていたと思う。これが毎日やられているのだから、すごいとしか言いようがない。
  • 中国のスケールの大きさは、音楽番組でも存分に発揮されていた。日本のミュージックステーションのような番組でも、50人を超えるような人数で歌うのである。それも一回限りではなく、何組も何組も、それが続く。舞台の大きさも、アリーナクラスで、スタジオなのか巨大ライブなのか判断がつかない。舞台の後ろには、2階建てくらいの大きさの液晶モニターが4つ程配置されており、幻想的なCGが歌に合わせて映されている。イメージは日本の紅白歌合戦をもっと豪華にしてしまった感じだ。こういう所に、「ああ、国力の片鱗を感じるな」と思ってしまう。なんだかんだ言って、GDPでも追い抜かされて、日本は徐々に「アジアの小国」になりつつある。そして、中国は名実ともに、「中華」(世界の中心)になりつつある。もちろん、貧富の差が激しい、一党独裁、などの部分はあるが、総体として考えて、もはや中国は「大国」である。
  • とは言え、一個人としては、中国を旅行先として見ることの方が多いだろう。その観点で言えば、まだまだ物価は安く、また、大陸らしい壮大な風景を見ることができる。さらに、食事もうまい。また、たまたまかもしれないが、人も結構良かったのである。これは魅力的な旅先と考えていいのではないだろうか。
  • これから中国のメインランドで行きたいところは、最低でも3つある。1)九寨溝(きゅうさいこう)、2)万里の長城、3)元陽の棚田だ。

日本に帰ってくると、まだ余震は続いており、福島原発の復旧作業は予断を許さない状況であり、首都圏の電車は7割程度の運行で、計画停電は継続して行われており、会社では節電のため空調が切られ、徐々に被災地応援歌のJ-POPが出始めていて、首都圏の浄水場から放射性物質が検出されたことを受けてペットボトルの水が完全に店頭から消えて、福島県を中心として野菜の摂取制限が行われ、チェルノブイリの時と同じように牛乳の摂取制限も行われ、スーパーの陳列棚はスカスカな状態が続いており、テレビCMは企業が自粛した結果、AC(公共広告機構)のCMが繰り返されることとなり、地震と福島原発の特番が続いており、といった現実に引き戻されることとなった。
電力が不足している中、このような文章をPCで書く事自体、不謹慎かもしれない。そんな薄らとした罪悪感を感じながら、今日は筆を置くことにしよう。

, listening to radio FM

2011年3月14日月曜日

081. 東日本巨大地震(その影響)

3月14日、今年は月曜日だが、有給休暇を取ることになった。
今回の大地震により、発電所が複数停止した。
これによる大規模な停電を防ぐため、「計画停電」を実施することとなった。
東京電力は関東圏を5つのグループに分け、それぞれ3時間毎、順番に「計画的な」停電を行うことで、関東圏全体のブラックアウトを避けようという計画だ。
しかし、時間がなかったこともあったのか、どの地区がどのグループに属しているか?その詳細が明らかにされる前に、計画停電の実施時間を迎えてしまった。
例えば、さいたま市は第2グループにも、第3グループにも、第4グループにも名前が挙げられているが、全てに該当するわけではなく、さいたま市◯◯区の「◯◯区」によってグループが異なる、または、さいたま市◯◯区△△〜丁目の「△△〜丁目」の段階でグループが異なるらしい。しかし、そこまで細分化されたリストが出来上がっていない(東京電力のHPにさいたま市◯◯区まで記載されたリストは掲載されているが、結局その段階であっても複数のグループが表示されていて、実際に自分の所がどのグループなのかの判断はつかない)さらに、細分化され過ぎていてその全容を伝えることがマスコミには不可能となり、その結果、社会全体で
「計画停電は行われるらしいが、自分の所の停電はいつ計画されているのか分からない」
という状態になってしまった。
さらに悩ましいのは、JRや私鉄だろう。
路線は複数のグループの地区をまたがって運行されており、いつ、どのタイミングで電車を止めればいいのか、動かせばいいのか、計画が非常に立てづらい状況になってしまった。
その結果、埼京線や武蔵野線は始発から運休を決定し、現在、2割程度の運行となっている。
駅には人が溢れ返り、
改札にすら辿り着けない状況だ。
2割の運行ということは、通常の5倍の人が車内に流れ込むことになる。
平常時でさえ、120%超の人を乗せているにも関わらず、それが5倍となったら、車内はとんでもない混乱に陥るはずだ。
さらに、計画停電を実施した場合、そのエリアの全ての信号機は停止する。
そこを警察官が手旗信号で補うというのだが、グループ分けがここまで複雑だと、どの信号機に警察官を配備すればいいのか?
その配備にどれだけの警察官を割いてもいいのか?
(当然、地震直後なので、人心は泡立っており、信号機も上記のような状態のため、交通事故やトラブルが通常より多くなることが予想される。信号機に割ける人員数と、治安を守るための人員数の采配を誰がどのようにして振るうのだろう?)
「計画停電」がその名の通り、「計画的」となることは非常に難しいことを痛感させられる。
実は、9時57分時点で、第1グループと第2グループの計画停電は結果的に、実施されなかった。
しかし、電車のダイヤ自体は計画停電を前提として大幅に変更されている。
その結果、上記のように電車は動かない、動いている本数が非常に少ない、その結果、ホームに、改札に、車内に人が溢れ返り非常に危険な状態になっている。
僕は、早々に諦めた。
今日は持ち帰った仕事を自宅でやることとし、
家からは出ないことにする。
冷静になり、経済の方に目を向けてみると、案の定、日経平均は大幅に値を下げており地震直後の10254円から528円安の9725円となっている(9時42分時点)。1万円を割ったのは3ヶ月振りだが、この後も続落する可能性が高い。
テレビをつけると、大津波の被害にあった東北沿岸部の痛ましい映像が繰り返し流されている。首都圏の交通の混乱など、津波の被害に比べれば本当に小さなものだと感じる。
岩手や宮城、福島、茨城、新潟、長野を始めとする震災、津波の被害に遭われた全ての方々、一刻も早い救助と安全な生活への復帰を心からお祈りしています。
まだ余震は続いている。
今回の地震を憶えている範囲で振り返ると、
3月11日
【午後2時45分頃】
三陸沖を中心に3度の大きな地震が発生。その大きさは日本の観測史上最大M9.0だった。
【午後3時15分頃】
岩手、宮城、福島の沿岸部を巨大な津波が襲った。リアス式海岸はその形状上、津波を大きくさせやすく、また、外海に面した港町が多かったため、20mを超える巨大な津波が街を「飲み込んだ」。
飲み込む、という表現は全く大袈裟ではない。
車がおもちゃのように飲み込まれ、木造の家は浮き上がり、津波の進行とともにスライドし、街であった場所が丸々瓦礫の山と化してしまった。宮城、岩手、福島の複数の街で200〜300の水死体が確認されたが、浸水した地域は非常に危険で、「確認」はできても「確保」はできない状況が続く。
街全体が壊滅状態に陥った人口16000人の宮城県南三陸町で、約9500人と連絡が取れず行方不明となっている等、死者数が今後もどうなるか把握できない状況が続いている。
3月14日午前8時時点で、死者1598人、行方不明者1720人と報じられているが、既に未曾有の事態であることは間違いない。
3月12日
【午前4時頃】
長野県北部、新潟県十日町、津南町に震度6弱の地震が発生
【午前8時頃】
千葉県、茨城県でも震度4の地震が発生
そして、3月14日もまだ余震が続いている。
先ほど、起こったのは、
【午前10時2分頃】
茨城県鉾田市で震度5弱の地震が発生。
当初、三陸沖の地震であり、「東北地方太平洋沖地震」という名称が使われていたが、長野県、新潟県等も震源地となってきたため、「東日本大震災」という名称も使われ出している。
現在活発なのは、茨城県沖だ。
つまり、「震源地が動いている」のである。
この震源地をマッピングしていくと、
北米プレートと太平洋プレートとの境界(三陸沖、茨城県沖)
北米プレートとユーラシアプレートとの境界(新潟県、長野県)
に集中していることが分かる。
つまり、北米プレートの左右で地震が発生し、北米プレート全体がグラグラになってきているのが今の東日本の状況だ。
ここで気になるのは、
・北米プレートの左右で生じている余震は、これ以上大きなものにはならないか?
・沈黙を守っている北米プレートとフィリピン海プレートとの境界に変化はないか?
・首都直下にある関東フラグメントに変化はないか?
である。
これ以上、震源地の移動や、新たな出現が起こらないことを祈るのみである。
また、福島の原子力発電所、その他の東北地方の原子力発電所においては、地震による冷却水の停止、それに伴う炉心の温度上昇、圧力上昇が確認され、現在、メルトダウンを防ぐべく、必死の冷却作業が行われている。
福島第一原子力発電所では、既に通常の措置では間に合わず、廃炉を前提とした海水の投入等、緊急的な手段がとられている。
現場では、想像を絶する緊張と重圧が立ち籠めいるはずだ。
現場の作業員の方、あなたたちがしていることは日本を救うことに他ならない。どうかご無事であってほしい。


2011年3月12日土曜日

080. 東北地方太平洋沖地震(その日)





3月11日 午後2時45分頃、三陸沖を震源地としたM8.8の大地震が発生した。
宮城県北部では震度7を記録し、
岩手県、宮城県、福島県、栃木県、茨城県で震度6、
首都圏においても震度5強を記録した。

発生時、僕自身は大崎にある会社の4階にいて、会議中だった。
立っているとよろけてしまうような強い揺れ、
窓のきしむ音、
外に見えたビルがゆらりゆらりと揺れている。
二羽のカラスが慌てて飛び立ったのが見えた。

「震源地はどこだ!?」

直感的に、ここは震源地ではなく、どこか別の場所に巨大な地震が発生していると思った。

「妻が待つ埼玉は大丈夫だろうか?」

徐々に不安になる。
避難訓練のように、館内放送が流れ、研究所の敷地内にあるグラウンドに避難した。
グラウンドに出たところで、もう一度、強い揺れが発生。
軽い悲鳴とともに、「危険です!伏せてください!」という拡声器からのアナウンス。
電柱がきしみ、電線が大きく揺れいている。

とりあえず、ビルが倒壊する程ではなさそうだ。
皆、携帯でワンセグを見ている。
電話やメールは通じなかったが、一方的に信号を受信するワンセグやラジオは、地震発生時にも有効だった。

「三陸沖が震源地らしい。」

「津波がやばい。うわっ車が流されている・・・!」

「有明で火災があったらしいよ。」

「あ、黒煙だ。」

30分程経ち、オフィスビルへと戻った。
途中、アスファルトがひび割れているのを見つけた。

(これ、地割れか・・・)

オフィスビルは2005年に建てられた比較的新しいものだが、
免震構造のためか激しく揺れて、
壁の一部にひびが生じていた。
壁の建材から出たと思われる白い粉が落ちている。

「あ、また揺れてる。」

一体何度この言葉を言っただろう?
恐らく、会社に残っている間だけでも10回は言っている。

そして初めて知ったのだが、
余震があまりに頻繁に、長く続くと、
「車酔い」のような状態になるのだ。
気持ちが悪い。

インターネットで被害状況を確認する。
頭がぐらぐらする。

仕事に集中しようにも、ディスプレイを見続けると、
余震の揺れで集中できない。

震度5強。
それだけで、これだ。

震度7だった宮城県北部や、
津波により街が飲み込まれてしまった宮城県と岩手県の沿岸部では、
一体どんな状況だったのか。
想像するだけで恐ろしい。

妻に怪我はなく、幸いにも両親の待つ実家へと歩いて避難できたのだが、
強い揺れを受けたときは「真剣に死ぬかと思った」というほど怖い思いをしている。

東京の交通網は完全に麻痺し、
僕は会社のある大崎から、埼玉県の自宅に帰ることができなくなってしまった。
この家に引っ越す際に、

「大きな地震が来たら、帰れなくなるな。」

と思っていたが、それが現実となってしまった。
以前から予想をしていただけに、歩いて帰ることがかなり困難であることも分かっていた。
順調に行って、7時間かかる。
途中で強い余震が発生する可能性もある。
僕は一日、「帰宅困難者」となり、
会社近くの友人宅に泊めてもらうことになった。

翌日、つまり今日になって、JR線が復旧。
実家へと妻を迎えに行き、
自宅に戻ったのは、午後3時頃。

家では、電子レンジが冷蔵庫の上から落ちかけ、
キッチンボードの引き出しが全開となり、
自転車が倒れ、
衣服を入れていたラックが倒壊していた。

ただ、耐震対策をしてあった液晶テレビは倒れておらず、
また、気になっていたハッセルブラッド等のカメラ類も全く被害を受けていなかった。

幸い、である。

食料と飲料、それから簡単な防災グッズと、
灯油を買いに行き、
風呂へと入り、
いそいそと避難支度を始めた。
余震は収束に向かっているものの、
念のため、というものだ。

当然、避難バッグにもカメラを詰める。
どのカメラにすべきか?悩みどころだが、
とりあえず、Lレンズ二本とライカCM、EOS 5D MkII ,EOS 1Vを詰めた。

これを持ち出す日が来ないことを望む。

みなさん、どうかご無事で。

, listening to the news about the earthquake in my room.

2011年3月10日木曜日

079. 狙う





それは、集中の権化だった。


(Canon EOS 5D MkII + EF 70-200mm f/4L IS UMN)