2010年4月21日水曜日

051. ギリシャ(出発3日前)


ル フ ト ハ ン ザ 航 空 運 行 再 開 ・・・!

ぉっし!

とガッツポーズを本日昼にしたのは、僕だけではあるまい。

そう、4月15日以来エイヤフィヤトラヨークトル氷河の火山噴火の影響で、本日21日まで実に7日間に渡って、欧州の主要航空路線が運休していたのだ。

4月24日からギリシャへと出発する予定だった自分としては、

「うわぁ。まだ止まってるのかよ。・・・動け、動け、動け動け動け動いてよ!今動かなきゃなんにもならないんだ!」

と、どこかで聞いたような台詞を心の中で唱える日々が続いていた。

まだ火山活動が収束したわけではないので、余談は許さない状況ではあるが、ずっと、

「運休」

の文字を見ていた自分としては、

「定刻」

の文字を見れただけでも、かなりハッピーなのであった。

しかし、エイヤフィヤトラヨークトル恐るべし、である。
あやうく「火山」というか、広い意味では「地球」に、旅の邪魔をされるところだった。

なんとなく、「エイヤー!FILA!虎!ヨーグルト!」的な意味不明な響きで笑えるかんじだな、と小馬鹿にしていたのだが、その影響力はオサマビンラディンの上を行くわけだ。

ところで、今回の欧州各局の航空規制は、経済的打撃が大きく、「過剰反応だ」という論調が吹き始めている。
この論調は、今後火山灰による航空事故が起きない限り主流になっていくものと思うが、実際のところ、今回のような対応は「正常反応」だと思う。

もちろん、旅はしたいけれど、火山灰が飛行機に与える影響は、おそらく一般的な人が思っているよりも遥かに凄まじい。

僕が生まれたことになっている1982年に起こったインドネシア上空での火山灰による航空事故を見てみよう。

1982年6月24日、マレーシアのクアラルンプールから オーストラリアのパースに向かっていたブリティッシュエアウェイズ9便のボーイング747-200は、 乗客247名乗員16名を乗せ、スマトラ島の南を巡航中、高度11470mで 4基のエンジン全てが停止するという事態に見舞われた。(当時、4機の全エンジンが停止する確率はゼロに近いと言われていた)

・副機長の証言によると、高度11470mを巡航中、突如4機のエンジンに青白い炎が広がったのが見えたらしい。この炎は、「セントエルモの火」と呼ばれるもので、静電気が発生させるコロナ放電による現象である。

・後に分かったのは、インドネシア・ジャワ島西部のグルングン火山噴火の際に撒き散らされた火山灰によりエンジンが停止したということである。

 エンジンに吸い込まれた火山灰は高温に熱せられ燃料ノズルや タービンブレードに堆積してゆき、推力を低下させ、最終的にはフレームアウト (エンジン停止)を引き起こした。

・窓ガラスは火山灰の衝突で傷つき曇りガラスのようになり、 機体の塗装は剥げ落ち、与圧系統、計器等も損傷した。

航空機に詳しい会社の先輩(気球乗り)が言うには、

「飛行機は高速で移動しているので、当然、火山灰とも高速で衝突する。
 火山灰というと、軽い「灰」のイメージが強いかもしれないけれど、
 実際は「砂」をイメージした方が正しい。
 空中に浮遊する「砂」の中を高速で飛行機が突っ込んで行くわけだ。
 その結果、サンドブラスト(金属製品の研磨方法)のような効果で
 火山灰が機体を削る。
 窓ガラスは曇り、
 機体の塗装は剥げ落ち、
 エンジンは停止して、墜落する。」

らしい。
そのうえ、

「火山灰雲の密度は通常の雲よりも低いから、気象レーダーにも映らず、 火山灰雲を避けられない」

らしい。

インドネシアの事例では、エンジン停止後、乗務員が20回にも及ぶ再始動操作を試みた結果、 高度4030mで、奇跡的に1基のエンジンが回転しはじめ、他3基のエンジンも数十秒後に 同様に回転し始め、なんとか事なきを得た。

さて、ちょっと考えてみても、この経験が今回の「過剰反応」に影響を与えていることは間違いない。
なんせ、アイスランドのお隣である英国のブリティッシュエアウェイズが経験しているのだ。このときのおぞましい経験が影響を与えていないわけがない。

そんなわけで、今回の「エイヤフィヤトラヨークトルに対する反応」はある意味、「既に火山灰による航空事故を経験した人類」としては「正常反応」だと思うのだ。

むしろ、ちょっと考えてみて、ゾッとするのは、今日の「運行再開」が「早とちり」である可能性である。
IATA(国際航空運送協会)によれば、先週末から週初にかけて欠航がピークに達した際、世界全体の航空便の29%が影響を受け、1日当たり120万人の乗客に被害が及んだそうである。
業界全体の損失額は17億ドル(約1580億円)にも上る。
この甚大な「経済的」損失が、「早とちり」を招かねばいいのだが。

とかなんとか憂いつつも、とりあえず、ギリシャへ行けそうなのでウキウキしているのも事実。

今回は撮影機材を一新したので、撮影旅行としても実に楽しみである。
ああ、またしても幸せな時間がやってきた。

願わくば、ルフトハンザ航空が通常どおり飛んで、
ギリシャではストライキが起こらず、
安全で、楽しい、休日となりますように。

それにしても、去年のこの時期は、メキシコで新型インフルエンザのパンデミックが発生し、今年は火山噴火である。
まったく、どうなっているのだろう?


listening to 「傘拍子/Radwimps」

2010年4月9日金曜日

050. 「時間」の認識について(私的な解釈)


会社からの帰り道。
金曜日の五反田は、飲みに繰り出すサラリーマン達の群れでにぎわっている。
信号待ちをしていた前のサラリーマン二人組。
1人は白髪で50代、もう1人は髪型がいかにも若く、恐らく20代か。
そんな二人の会話が聞こえて来る。

若者「そうは言っても、やっぱりうちの会社って、古くないですか?」

白髪「そうだなぁ」

若者「だって、経営層ってみんなW大学出身ですよねぇ。」

白髪「そうだなぁ」

若者「財閥ですよね。」

僕(違うだろ。そこは学閥だろ。)

白髪「そうだなぁ。」

僕(うぉい。あんたも認めてしまうのか?)

若者「今時、財閥って考えられないですよねぇ。」

僕(『自分は悟ってる風』に言ってるけど、そこ学閥だから。)

白髪「そうだなぁ。」

僕(ぅおーい、注意してあげて!この若者に気付かせてあげて!)

とまぁ、ひとしきり心の中で二人の会話に参加しちゃってた訳だが(あやしい)、
よくよく考えると、僕たちは割と「言葉」というものを、その「定義」すら曖昧なまま、いい加減に使ってるのかもしれない。
というより、むしろ一般的には、財閥と学閥を間違えるくらいの「いい加減さ」は、仕事での打合せや重要な場面(結婚式のスピーチとか)以外であれば、許容されてしかるべきなのかもしれない。

若者の威勢のいい台詞に、全て「そうだなぁ」で受け答えしていた50代の背中を見ながら、僕はそんなことを思っていた。

その受け答えがいいか悪いかは抜きにして、翻って自分自身はどうだろうか?
きちんと「定義」を把握して、言葉を使っているだろうか?
そう考えると、甚だ怪しい。
僕がここに、これまで書いてきた文章にも、上記のような「いい加減さ」は含まれていただろうし、また、それをちっとも気付かず、問題とも思わず、過ごしてきたのも事実だ。
むしろ、「言葉」の定義から「あえて外れること」で、その言葉自身を拡張的に使用したいとも思っているくらいだ(「物質化(外部記憶と内部記憶)」など)。

うん、言葉の使い方を気にして議論をやめるよりは、間違いを恐れずに書いてしまった(話してしまった)方が、むしろ価値がある気がする(ツッコんですまんかった>若者)。

というわけで、「財閥」と「学閥」を間違えるくらいの「いい加減さ」がたっぷり入ったエッセイの始まりです。
(前置き長っ・・・)


【今日のお題:時間の認識について】
「小さい頃は、1年ってすごく長く感じたけど、最近は本当に1年って「あっ!」という間だよね。」

なんて話をよく耳にする。
これってなぜなんだろう?

人間が「感じる時間」というものは、物理的な「絶対時間」と完全には一致しておらず、年齢や精神状態(退屈な講義は長く感じ、楽しいときは短く感じる等)に応じて伸び縮みしてしまうもののように思える。
相対性理論はこの際、無視します。光の速度で動くこと(特殊相対性理論の前提条件)やブラックホールに突っ込んでものすごい重力を受けること(一般相対性理論の前提条件)というような「物理的時間」そのものが変化してしまう極限的な条件も宇宙のどこかには存在しているようですが、正直言って僕らの日常で出くわすことはないので。)

さて、そんな「伸び縮みする感覚的な時間」は「心理的時間」と一般的には言われている。
なお、僕は心理学や神経生理学は専攻していません。つまり素人が徒手空拳で持論を展開しているようなものですが、上記の50代の方と同じように広い気持ちで見てもらえればと思います☆)

一般的に、「心理的時間」の知覚は次のような条件に左右されて、長く感じたり、短く感じたりするらしい。

・物理的時間(当たり前。1分より2分の方が、心理的時間としても長いに決まってる)
・時間経過に向けられる注意(人を待っているとき等。時間を気にする程長く感じる)
・神経生理学的な興奮(メタンフェタミンやカフェインといった興奮剤は時間を長く感じさせ、鎮静剤は時間を短く感じさせる)
・時間経過中の情報量(記憶量)(ある時間中に残った記憶が多い程、「あのときは長かったなぁ」と感じる。達人同士の戦いのようなかんじか。)

上記の条件が複合して、「心理的時間」の長さが決められている・・・なんて聞くと、なんとなく分かったような気にもなるが、実は「小さい頃は長く感じたのに、年を取ると短く感じるのはなぜ?」っていう最初の質問には、答えているようで答えていない(笑)

小さい時(例えば8歳)と今(例えば、28歳)で、1ヶ月の長さは異なるように思えるが、一体両者でどこが変わったのだろう?

まず、物理的な「絶対時間」の長さは、僕の年齢ごときに影響を受けるわけはないので(笑)、「絶対時間」としての1ヶ月は8歳であろうと、28歳であろうと、不変である。

とすると、「心理的時間の伸縮」を発生させているのは「僕自身」の「経年変化」ということになる。

では、僕自身の「経年変化」は、どこの「部分」の変化になるのだろう?
脳だろうか?
身体だろうか?
 

【代謝説】
以前テレビ番組で、同様の質問に対してどこかの医師が、

「小さい頃は、代謝が活発なので、その分時間を長く感じられるのです」

と答えていたが、この場合の「代謝」って何の代謝を指すのだろうか?
そして、どこの「部位」の代謝なのだろうか?(脳?臓器?脳であれば、どの部位?)
ググってみてもいまいちわからない。

1分経ったら合図をする実験で統計を取ると、高齢者の方が若年者より遅く合図する傾向にある(例えば1分10秒の絶対時間を心理的時間では1分だと思ってしまう)らしいが、その結果を持って「高齢者は代謝が全体的に落ちているから、代謝が原因だろう」とするのは、何となくしっくりこない。

また、運動の前後で同様の実験をすると、運動しなかった場合(代謝が低い場合)の方が運動した後(代謝が高い場合)より遅く合図するという結果も、この代謝説の根拠になっているようだが、これは脈拍の影響もあるはずなので、「代謝」だけを取り上げて因果関係を付けるのは乱暴なように思う。

(もしこの「代謝」という曖昧な言い方をやめて、「時間感覚に関係の深い神経伝達物質の◯◯◯◯◯◯の分泌量が高齢者ほど少ないから」とかだったらしっくり来るのだが。実際、パーキンソン病で黒質から線条体へのドーパミン作動性経路が障害されると、時間知覚障害が起こることが報告されている(Malapani et al., 1998; Malapani & Fairhurst, 2002; Riesen & Schnider, 2001))

しかし、不思議なのは高齢者であっても、サーカディアンリズム(1日という時間尺度を認識する体内時計)そのものは狂っていないということだ。つまり、年齢によらず、1日はやはり1日として認識しているはずなのである。

とはいえ、とりあえず好意的に代謝説を受け入れるとしても、代謝説は1分等の短い時間の感じ方という意味では有効な説明手段となるかもしれないが、1ヶ月や1年といった長い期間までも「あっ!という間」に感じるのは、「代謝」の影響だけでは説明できないように思う。
実際、代謝説を支持する結果は「1分を1分10秒と間違う」程度の誤差(14.3%の誤差)しか示せていないが、1年があっという間だという感覚は、むしろ誤差数百%くらいあってもおかしくないレベルである。
(例えば、70歳の人が5分を1分と勘違いするくらい誤差があるのなら、代謝説のみで心理的時間の長さを語ってもいいと思うが、実際のデータとしてはそこまで極端な誤差はなさそうである)

【ジャネの法則】
年齢による心理的時間の誤差がかなり大きい、という点に注目してみると、19世紀の哲学者ポール・ジャネが提唱した説が思い出されてくる(なお、この名前は語尾を上げて発音すると憶えやすい。ポール・ジャネ?と若干ギャル男気味になるところがいい)。

[ジャネの法則]
「時間の心理的長さは年齢に反比例する」

つまり、「10歳の1年に比べて、30歳の1年は1/3に感じる」というものだ。
これは単に僕たちの感覚を言葉にしただけで、「じゃあ、なぜ時間の長さは年齢に反比例して感じるの?」という答にはなっていない。
が、一応、ジャネの法則は、

「新鮮な経験が多い程、時間の経過は長く感じる」

という根拠を持ってきて(科学的データには基づいていないが)、

「子供の頃は、未経験なことが多く、相対的に【新鮮な経験】が多くなるため、時間が長く感じる」

という論理展開をして、正当化しているようである。
これは、既出の「時間経過中の情報量が多い程、長く時間を感じる」という心理的時間のファクターにも通じるところがある。
僕自身としては、このロジックに対しては感覚的に納得できるところが多く、賛成できる。
しかし、ジャネの法則の根拠として、もうひとつ簡単な理由があってもいいのではと思っている。


【藤子・F・不二雄の鋭い指摘】
ドラえもんで知られる藤子・F・不二雄だが、割とブラックな短編も描いており、その中に、「光陰」という話がある(異色短編集「気楽に殺ろうよ」収録)。

この話では、二人の老人が昔を懐かしみながら会話をするのだが、その中にこんな鋭い台詞が出て来る。

「人生の折り返し地点を35歳とするか。35歳から今日までの35年間を考えてみろ。実感としてはほんの数年にしか思えないんだよ。」

「つまり、こういうことさ。現体験中の時間は常に過去の時間の総和と比較されるから・・・」

この意見は「そんなことじゃない!」と否定されてしまうことになるが、僕にとっては話の筋より、この「現体験中の時間は常に過去の時間の総和と比較される」という件が、非常に気になった。
ジャネの法則のもうひとつの根拠になるものと思ったからだ。

つまり、人間がある一定の時間(例えば1年)を認知するときに、脳内では「過去の時間の総和」との比較を行ってから、「長い」「短い」を決めているという簡潔なモデルである。
脳が「心理的時間」を算出する際に、必ず過去の時間の総和と比較することを行っていれば、ジャネの法則は確実に成り立つことになる。
つまり、3歳の子供にとっての1年は人生の1/3に当たる長大なものであると算出されるし、80歳のご老人にとっての1年は1/80の時間に過ぎないと算出されるわけだ。


【時間知覚の心理学的モデル】
さて、モデルという言葉を迂闊にも使ってしまったが、実際の心理学では「感覚的処理モデル」と「認知的処理モデル」の2つが主に用いられているらしい。

参考:広島大学生理心理学・精神生理学研究室より「時間知覚の神経生理学的基盤」
http://home.hiroshima-u.ac.jp/seiri/timeperception.html

「感覚的処理モデル」は何らかの内的な振動子やペースメーカーのような時間情報の基礎となるシステムを生体が持っていると仮定している(e.g., Treisman, 1963; Church, 1984).このモデルでは,連続的な時間の流れを離散量としてパルスや単位時間に置き換える変換過程により時間知覚を捉えようとしている。
サーカディアンリズム等の生理学的な知見とも親和性が高そうなモデルである。

一方、「認知的処理モデル」は,時間そのものをカウントするのではなく、時間経過中に得られる「情報」の処理によって時間が知覚されると仮定している(e.g., Ornstein, 1969)。時間が長ければ,その中に含まれる情報も多くなる。従って、処理された情報量が多ければ、それに応じて時間が長いと知覚される。これは、経験的な時間感覚と親和性が高く理解しやすそうだ。

【時間はどこにある?】
さて、ここで、「そもそも人間は一体どうやって時間というものを認識しているのだろう?」ということを、直感的に徒手空拳で考えてみたい(笑)
ただし、せっかくなので一応、認知的処理モデルを意識しながら、考えを進めてみる。

まず、そもそも僕たちは、「今」という一瞬しか知覚できない生物であることを考えるべきだろう。
僕たちは常に時間の進行の最前線にいながら、「今」というその表面の一点のみでしか五感を使って世界とインタラクションすることが出来ない不自由な存在である。
たった1秒前の世界であっても、五感を使用して知覚することはできないのである。
僕たちは毎分60秒のスピードで過去の世界から遠ざけられてしまう存在である(と同時に、毎分60秒のスピードで未来と直面しつつある存在でもある。そして、過去と未来との狭間で非常に薄く存在している「一瞬」が「今」というものである。私たちはその「今」という薄膜の中から常に逃れることはできない。遠ざかる過去も、迫って来る未来も拒絶することはできないのである。これを僕は「3.5次元の宿命」と勝手に名付けている(笑)ちなみに、僕にとって「写真」とは「毎分60秒で過ぎ去る世界への唯一の反抗手段」である。

僕たちが日々、「時間」と言っているものの実体は、「今」の残像を記憶内で統合して作り上げた一種の仮想に過ぎないのかもしれない。

このような視点に立つと、「時間」という概念は「記憶(脳内に溜め込まれた情報)」に過ぎないということになる。
そもそも「今」という「微分量」しか感じられない人間に、「時間=時の積分量」というものを概念として認知させるためには、「記憶装置」に頼らざるを得ないのは必然であろう。

さて、「記憶」がどのように脳内で格納されているか、については一旦置いておくとして(これだけでひとつのトピックスになってしまう)、ここでは比喩としてバッファメモリとハードディスクに喩えて、脳内での時間認識について考えてみたい(カメラをやる人は、デジカメの情報処理と同じだと思っていただければ理解しやすいだろう)。

[時間認知の簡単なフロー]
まず、時間経過とともに五感を通して人間は外界から情報(視覚情報、聴覚情報、触覚情報、嗅覚情報、味覚情報、これらの複合情報として、言語情報等)を得て、それに対して感情や思考といった応答情報を発生させることになる。
次に、これら情報はバッファメモリ内に一時的に蓄えられて、例えば「ついさっき」や「1分」といった短期的な時間の概念を形成する。(ここが代謝によって影響を受けやすい部分と考えられる)
次に、バッファメモリ内の情報はある一定期間を過ぎると(例えば1時間)、ハードディスクへと送られて蓄積される。人間が、「1ヶ月間」という時間を認識しようとした際に参照するのは、このハードディスク内の情報量(ボリューム)である。
一定時間(1ヶ月)に対する心理的時間の把握は、単純にハードディスク内の総情報量に対して、その一定期間が何割を占めたかで行われる。(この認識様式のため、ジャネの法則が成立することになる)

これが最もシンプルな「時間認識」の理解だと思う。

さて、ここでひとつ気をつけたいのが、

30歳の今思い返してみても、10歳のときの1年間は長く、29歳の一年は短かい。」という感覚である。

つまり、30歳になったとしても、「10歳の時の1年間」はその後の20年間で薄められることなく、「あのときは長かった」と認識されるのである。

このことを踏まえると、各年齢における心理的時間の長さに対する認知は、常に当時の年齢における全情報量を分母として再計算される、という計算様式が推測される(もしくは、各年齢における心理的時間の長さそのものを記憶しているケースが想定される)。

その結果として、8歳の時の1年間は28歳の今でも「長かったなぁ」と思い起こせることになる。
さて、このような(あやしい)考えに則ると、まるで脳内のハードディスクには、「8歳の時」「10歳の時」といった当時の情報量を把握するための「しおり」のようなマークがついているように思えてくる。
もちろん、脳内の情報はPCのハードディスク程整然と分類はされていないだろうけれど、時系列をある程度認識可能であることから、そのような機構もありうるのではないかと(勝手に)想像している。

さて、今日は心理学や神経生理学、脳科学についてほとんど知識を持たないのにも関わらず(笑)、「時間の認識」という哲学的なテーマに 勝手気ままなモデルを与えてしまった。

このような思いつきが正しいのかはきちんとした検証が必要だと思うが、いかんせん僕は単なるサラリーマン。
いずれ、どこかの賢い研究者が一般人にも分かるレベルで「回答」を発表してくれるのを待つばかりである。

こんな妄想を書いている今日もまた、「早かった一日」のひとつとなってしまうのだろう。
ようこそ、「今」。  >毎分60秒で迫って来る未来達へ。
さよなら、「今」。  >毎分60秒で遠ざかって行く過去達へ。

listening to 「Classical Public Radio WDAV」