2009年8月11日火曜日

030. 出発前夜(インドネシアに向けて)


明日、出発する。
今度の行き先は、インドネシア。
今回は、インドネシアで猿の研究をしている友人に会いに行くのが一番の目的。
久しぶりに会うので、とても楽しみだ♪

ということで、友人に会えればそれだけでもう十分なんだけれど、せっかくインドネシアまで行くのだから、思い出に残る写真のひとつでも撮ってきたい。
というわけで、行きたい所をネットで探していた。

そこで見つけたサイト達をちょっと紹介。

バリ島 キンタマーニの写真

なお、キンタマーニとは地名である。
音読するとかなりきわどい(笑)感じだがここにはぜひ行きたい。
どうやら朝日がきれいな場所のようだ。

それにしても、こんな写真どうやったら撮れるんだ?
カメラはCANON EOS 5D Mark IIのようで、かなりの本気度が伺える。
(価格.comでボディー価格24万円なり)


このサイトもすごい。
http://saamphoto.com/index.php

こちらはプロの写真家のようなので、すごいのは当然なのだが、
ここまで行くと芸術と言っていいと思う。
(というか、写真は芸術としてもっと認知されて良いはずなんだけど、日本ではちょっと異質な扱いを受けているようだ。発生時期が遅いから、と聴いたことがあるけれど。。日本のカメラ作りは世界一なんだから、もっと地位が向上してもいいと思う。)

さて、写真とは別に、ぜひ行ってみたいのが、コモド島。(もしくはリンチャ島)
「コモドドラゴン」という世界最大のトカゲが生息している島だ。
珍獣ハンター イモトが追いかけっこしたことで一躍有名となった(?)
最大全長は3mに達するらしい。
主食は、イノシシと鹿。
牛も食うらしい。
ときどき人間も捕食されてしまうとのこと。

2009年3月25日にも、地元の男性がコモドドラゴンに足をかまれて死亡してしまった。調べてみると、コモドドラゴンの口には血液の凝固を阻害する毒があるらしい。古くは口に腐敗菌が多く生息しており、この菌によって敗血症に至ると言われていたが、メルボルン大学のブライアン・フライらによってこの学説は誤りであることが明らかにされた。毒は、ノコギリ状の歯で噛み付いて引っ張る動作により、歯の間にある複数の毒管から流し込まれるらしい。確かに、死亡した男性も大量出血によるショックが死因らしいので、この毒が致命的なのは間違いないだろう。
しかし、この毒、使いようによっては「抗凝固剤」としてクスリにならないかな?等と考えてしまうのは、職業病だろうか(笑)

っていうか、コモドドラゴンこええ。(おそっ)

毒もあって、体長3m。
立派なモンスターである。

でも、だからこそ肉眼で捕捉してみたい。

問題は、時間である。
実は、今回の旅はかなりの遠回りを強いられることになっている。
というのも、僕が乗る飛行機は、インドネシアの首都ジャカルタに着く。しかし、友人がいるのはバリ島。ざっと1000km程離れている(笑)
日本で言えば、福岡の友人に会うために、成田空港に到着してしまうようなものだ。

というわけで、国内線でジャカルタからバリ島のデンパサールまで飛びたいところだが、日本からインドネシアの国内線の航空券を入手するのは難しい。
(現地の旅行代理店を介せば入手可能だが、パスポートのコピーとクレジットカードのコピーの表裏を送る必要がある。おいおい、それって機密情報だよ。っていうか、クレジットカードの表裏のコピーがあったら、ネットで十分使用可能じゃないか。っていうことで、残念ながら断念。)

つまり、明日、ジャカルタに着いてから、国内線の飛行機を予約することになる。
この時期、、大丈夫なんだろうか?
もし航空券が取れなかった場合、バリ島までバスで30時間である。
さらに、ドラゴン達が待っているコモド島には、バリ島からさらにフローレス島まで飛んで、さらに船をチャーターして6時間もかかってしまう。

なんとなく無理な雰囲気が漂っているのだが・・・(焦

まぁーとりあえず、ジャカルタに着いてから考えよう。

あとは、テロリスト達が夏休みをとってくれることを祈るのみだ。
ジャカルタってこの間ホテル爆破されてたし、バリ島でも爆破あったしなぁ。

先日、警察がジャカルタのホテル爆破事件の首謀者を射殺したって発表していたけど、どうやら別人だったらしい。(まじで頼むよ。)
報復テロとか本気でやめてほしい。

とはいえ、明日はジャカルタ。
思い切り楽しもう♪

Gorillaz / Demon Days

2009年8月9日日曜日

029. 音楽シーンについて。(個の時代。)


昨日、久しぶりに音楽番組を見た。
もともとランキングや流行に興味の薄い方だから、あんまり詳しいことは分からないけれど、それでも、ランキングの「雑多感」を感じずにはいられなかった。
どういうことかと言うと、「今流行っているジャンル」というのがまるで特定できないのだ。

例えば、僕が中学生の頃、「小室ファミリー」というのが大流行していて、ランキングを観れば一目瞭然、「TRF」や「globe」といった「小室的な音楽」というのが、時代の中心にあるということが嫌というくらい分かった。

その後、「ビジュアル系」と称されるロックバンドが数多く出たり、「ゆず」や「19」に代表されるようなフォーク系の音楽が流行ったり、「ハイスタンダード」や「ブラフマン」等のインディーズロックが流行ったり、「浜崎あゆみ」が絶世を極めたり、「倖田來未」が出て来たり、「ジブラ」のような和製HIPHOPが流行ったり、、とまぁ色々あったと思うけれど、くだんの音楽番組を見ていても「今の時代」を乗っ取るような「これだ!」という音がどれなのか?全くわからなかったのだ。
ランキングに出て来る音楽の種類は、多種多様で、おもちゃ箱をひっくり返したような状況になっていた。

なぜか?
きっと、それぞれがそれぞれの好きな音楽を聴く、という「個の時代」が音楽業界にもやってきたということなのだろう。(こんなことは、もうとっくの昔に言われていたことなのかもしれないが。僕のような一般市民にも「体感レベル」でわかるようになってきた、ということで、敢えて書かせてもらう)

「世代全体」が共感するミュージックより、「僕」/「私」が共感できるミュージックの方がいい。

そんな選択を、今の若い世代はしているのだと思う。
無意識的にしろ、意識的にしろ、それは僕にとっては好ましいもののように思える。

ただ、「個」が強くなった今、「あの時代」という「共通の思い出」というのは作りにくくなったかもしれない。
けれど、それとは引き換えに、様々な、雑多な種類のアーティストが食っていける時代になった、とも言える。

これまでは、波が分かりやすく、一様だったため、その時代のその波に乗った者は大もうけするけれど、その波が去ると、そのジャンル自体が「過去の産物化」してしまい、もうその分野では食っていけなくなる、という現象があった。

そのジャンルが好きで好きでしょうがない優れたアーティストがいたとしても、時代の波が去った静かな水面では盛り上がりようがなかった。

しかし、今の音楽業界は違うようだ。
例えるなら、小さな渦がたくさん渦巻いているようなイメージだ。
各ジャンルがそれぞれ盛り上がっていて、その渦は終わることを知らない。渦の中には、常に波が発生していて、みんなその中で盛り上がっている。

これは、やもすると各ジャンルの独立性が助長され過ぎて「たこ壷化」してしまい、渋谷陽一が「様式化」と比喩して批判するような「ジャンルの中だけの自慰的な音楽」が多数発生する可能性もあるけれど、僕は「様式化」をそれほど「悪」や「退化」や「停滞」だとは思っていないので、OKである。(僕はわりと「様式美」にも惹かれるからだ)

このまま各ジャンルがどんどん成熟化していけばいい。

もう一つ、驚いたことがある。
それは、上記の「渦の発生」にも関係しているのだが、アーティストが非常に長命になっているのだ。

例えば、僕が見たランキングでは、「堂本光一」の曲が一位だった。
12年前のランキングもたまたまカウントダウンTVでやっていたのだが、そのときの一位は、KinKi Kidsの「硝子の少年」。

つまり、12年以上もの間、堂本光一はシーンに残り続けている。
これはすごいな、と思う。

堂本光一の歌がすごい、というのとは少し違って(別に批判しているわけではなく)、むしろ、堂本光一を好きな人が「好きでい続けている」ということがすごい、と思うのだ。

もちろん、堂本光一は新しいファンを獲得しながら、同時に一部のファンは離れていきながら、と「ファンの入れ替え」はあるものと思われるが、恐らく、ファンの大部分は昔からのファンなのではないか。(全く持って推測だけれど)

すると、この大部分の「ずっと堂本光一が好き」な人々は、堂本光一が作る「渦」の中で「盛り上がり続けて12年!」というわけである。

なんとも、たいしたものだ。

音楽シーンというのは、どこかファッション的で、移り変わりが激しい世界だと思っていたが、どうやら現実は違うらしい。
ある一定以上の人気と実力(それはもちろんプロダクションの力も含めてだが)を兼ねそろえたアーティストは、10年や20年を軽く超えてしまうのだ。

それも、これまでと違って、そういったアーティストはごく稀な存在ではない。今後も、増えていきそうだ。
「個の時代」はそれを可能にする。

さて、この現象はこのまま延々と続いて行くのだろうか?
僕は、恐らく、続いて行くと思う。
その理由は、インターネットの存在だ。インターネットの基本的な性質として、「検索で目的の情報を探す」というものがある。つまり、自分の興味の動線上の情報には、これまでの世界より、速く、確実に行き着くことができる。さらに、iTunesのGeniusの機能でも明らかなように、インターネット上の情報は、ジャンル毎に整理され関連づけられている。このような「情報のクラスター化(かたまり化)」が「渦」の発生を助長する作用を持つだろうと推測できるのだ。
さらに、口コミや掲示板等も「渦」の発生には一役買ってくれるだろう。ブラウザを立ち上げれば、同じものを好きな仲間達が集まっているのである。これなら「常に好き」でいることは容易だろう。

さて、この現象で困ってしまう人達がいる。
それは、アーティスト、と言いたい所だが、そうではない(長命化は間違いなくアーティストにとってプラスだ)。
恐らく、困ってしまうのはレコード会社だろう。これまでのような「大大ヒット!」というのは、もはや飛ばせない。日本国民全員が手を出すような曲を作ることは、不可能のレベルに近い。すると、規模の小さな会社は潰れるかもしれないし、合併等もしなければならないだろう。また、音楽というのは多くの場合、「歌」の善し悪しが評価に影響を与えるが、困ったこと「日本語」は英語のように汎用性が高くない。つまり、日本市場が成熟してしまったから、海外に打って出る、という戦略は取れないのだ。

というわけで、音楽業界、とりわけレコード会社は厳しい局面に立たされるだろう。また、これまでと違って、音楽がCDという媒体に依存しないで取引されるようになった。それはiTunesに代表されるようなPCベースの取引に限らず、レコチョクのような携帯電話ベースの取引にまで拡大している。さまざまな種類の「音楽配信」が乱立することで、ますますレコード会社は売り上げを出しにくくなった。

音楽を取り巻く、「国民の成熟度」や「流通の変革」が、大きな壁となってレコード会社に立ちはだかっている(だろう)。

とか思ったりして。
ここまで色々知ったように書いてきましたが、ほとんどが僕の推測に基づいているのであまり真に受けないでくださいね(笑)あくまで音楽番組を見た僕の勝手な感想(妄想)なんで。)

それはそうと、最近、「阿部真央」がものすごく気に入っている。
パッと聴きは「椎名林檎」的な声質だな、くらいにしか思わなかったのだけれど、この人の声にはかなりの幅がある。「矢井田瞳」の切ない感じもあるし、一瞬「Cocco」のような狂気も感じることができる。
そして、何より若い。(って(笑)、こんなこと書いていると、本当におっさんですね。)
まだ、発進したて、ということもあるのだろうけれど、真っすぐで、真剣で、正直で、実にいいなぁと思う。
歌い方もすごく工夫しているし、それが出来てしまう器用さも兼ねそろえている。久しぶりにいいルーキーがやってきたなあ!と。
これからも、ガンガン突っ走っていってほしい限りだ。


Various artist / Jazz thing

2009年8月2日日曜日

028. 構想/設計(写本「Flashbacks」に向けて)


江戸川の花火大会に行って来た。
今年も、友人のおかげで素晴らしい花火を素晴らしい仲間とともに観ることができて、本当にありがたい限りだ。
さて、その帰りである。
電車を間違えたらしく、山手線の終電は僕の最寄りの駅から二駅先の大崎駅で停車した。

「仕方ない。歩くか。」

ここからなら自宅まで3km程。毎日の通勤(徒歩)に比べたらへっちゃらだ。
僕は週末の都心を、AM1時過ぎにぶらぶらと歩いて帰った。
途中、灯りのあるところでは戯れにいくつか写真を撮った。
五反田付近ではマンションが火事になっていて、煙がもうもうと上がっていた。
階段を降りて逃げる人々。消防車から避難の号令が発せられる。

僕は、その悲惨な場面を前にして、立ち尽くすと同時に、
「それにしてもマンションというのはいやに幾何学的な造りをしているものだな」などと不謹慎にも考えてしまっていた。

僕はその建物が焼ける匂いを嗅ぎながら、またぶらぶらと歩き始めた。

◇◇◇

僕は最近、写真のサークルに通い始めた。
ニーチという団体で、年に一回「写本」というものを作って発表する。写本とは、平たく言えば「写真集」であり、自分が撮り貯めた写真作品を本という形式で表現してみましょう、というわけだ。
先週、僕はその写本作成の集まりに出席して、写真家の講義を聴いていた。
写真家の先生は写本の作成に当たって、「言葉で説明できるテーマを持て。」との主張をしていた。それは「感性で切り取った一瞬の現実です」等のあいまいな言葉ではなく、もっと具体的な言葉で説明できるテーマだ。
プロの写真家というのは、そういった「言語化できるテーマ」を持って写真を撮っているそうだ。

僕は今、写本を作っている。
それは、ニーチという場で発表するための写本ではない。
単純に、「これまで自分がやってきた写真の軌跡をここらでひとつまとめてみようか。」というごく個人的な動機に基づくものだ。

それを漫然と進めていただけに、この講義は、僕にとって非常に重たいものだった。


「言葉で表現できるテーマだって?そんなものあったっけ?」


僕は、突然、難問に出くわしたのだ。
講義を聴きながら、僕は自分の「写真撮影」という行為に対して、何らかの意味付けやテーマ性を見いだそうと考えてみた。

僕の写真は、基本的に「旅」がベースとなっている。
言うなれば、「旅の記録」という側面が強い。
「こんな世界が、この世の中にはあるんだよ。」
ってことを、その時間と空間を共有できなかった他の人に伝えることを目的としている。
「一人旅」というスタイルから必然的に生まれた目的、とも言える。

僕が写真を撮る時に考えることは、
「この感動をどうやって画面に落とし込もうか?」
「一枚の絵として、どうやったら綺麗に見えるだろう?」
といった程度のことだ。

つまり、

「旅の記録」という機能と、
「一枚の絵としての完成度」という品質。

それが僕の写真撮影という行為の根底にあるものだ。
それだけしかない。
そこには、「テーマ性」というものは、ない。

「旅」という強烈に日常から身体と精神を引きはがす「力」に引きずられて、
「撮ってしまっている」だけなのかもしれない。

僕はそんなことを考えながら、少し自分のことを恥ずかしく思った。

「写真が好きだ、と言いながら、そこに何の意志もテーマもなかったのか。」

唐突に、僕は自分がとても虚しい人間に思えてきた。
でも、それが現実ってことだろう。
それは反省。
そこで、である。

僕は今、「Flashbacks」というタイトルで写本を作成している。
僕がこの本で表現したかったことは、「僕が見た世界」そのものだ。
そこには、「旅で見つけた日常にはない世界」がある。
それは間違いない。
しかし、それだけでは、足りないことに気がついた。
つまり、僕が見た世界というやつは、「日常」があって、「旅」があって、というその右往左往とする現実なのである。
「日常」と「旅」の「往復」こそが、僕の世界の構成要素の全部だ。

僕が見た世界、というものを正しく、そっくりそのまま表現するのなら、「日常」を省いて、「旅」だけの写真とするのは間違っている気がする。
もちろん、「日常」と言っても、オフィスの様子を撮影するわけにはいかないし、その「絵」が僕が感じている「日常」と一致するとは思えない。
では、僕が感じる「日常」とは何か?

それが、僕にとって、撮影行為に対するテーマ性を発掘する鍵になるんじゃないか?

そんな思いを抱いていた。


さて、話はまた本日の深夜のぶらぶら歩きに戻る。
火事になったマンションで感じた違和感。
それは、そのあとも続いていた。嫌に冷静な自分を嫌悪しながら、僕は五反田の街を歩く。そこにはいつもと変わらない、なんの変哲もない街並が広がっている。

舗装された道路、街路樹、タクシー、街灯、閉店後の飲み屋、酔っぱらい、アスファルト、橋、手すり、車よけ、コンビニ、
そんなものが目に飛び込んで来る。
しかし、何かが、違う。

都市を構成する全ての要素に、「ああ、東京だな。」と気付かせてくれる「何か」があるのだ。

僕はうつむき気味にして歩いていた。
そこは歩道で、クリーム色の正方形のタイルが敷き詰められていた。
延々と。
等間隔で。



「ああ、そういうことか。」



僕はようやく気付いた。
僕が「日常」と呼んでいる世界が、「日常」と感じる所以を。
僕が「ここは東京だな」と瞬時に判断できる「理由」を。
それは・・・


「秩序」だ。


よく見てみよう。
街灯は、暗いところが少なくなるように、巧妙に配置されていて、
それは多くの場合、「等間隔」だ。
足下を見てみよう。
そこには正方形に綺麗に切られたタイルが敷き詰められている。
その間隔も、計ったように「等間隔」だ。
都市の無機質感を和らげるように配置された街路樹をよく見てみよう。
ほら、やっぱり「等間隔」に配置されている。
マンションの消火栓のバルブもご丁寧に「等間隔」に6つ設置されている。
車止めも「等間隔」に並んでいる。
ガードレールもきれいに支柱が「等間隔」。
ビルのシャッターには横縞のでこぼこがあるけれど、綺麗に「直線」だし。
考えてみれば、この道路はなんと「平ら」なことだろう。
誰かがこの道をならしたに違いない。
横断歩道を渡ってみれば、そこには白と黒の縞模様。
これもやはり「等間隔」!


ああ、なんて幾何学的な世界に僕は住んでいるのか。
そして、それにまったく違和感なく生活をしてきたなんて。
僕は、今、酔ってへんなことを考えているだけなのかもしれないけれど、
それでも、この「東京」って街は、設計しつくされているのは間違いない。

そして、この「東京」という場所なしでは、僕の「日常」は語れない。
いや、もっと言えば、「東京」そのものが、僕の「日常」を定義しているのかもしれない。この「設計された都市」こそが、僕の日常の礎だ。

僕は旅に出て帰って来ると、まず、成田空港から渋谷までの高速バスで、

「日本の道ってすごく平坦だな。そして、車は実にスムーズに進む。」
「あ、赤信号でしっかり停まっている。それに見てみろよ。後続の車はきちんと車線に従って二列に並んでいるよ。なんて律儀な国民なんだ。」

と、驚く。
そして、渋谷が近づくと、

「あ、だんだん賑やかになって来た。なんだか帰って来た気がするなぁ。」

と安堵する。
つまり、日本の都市という、「秩序」に僕の日常は強く依存して存在しているのだ。
そのことを、今日、強烈に気付かされた。

僕は火事で煙ったマンションを見て、被害に合った人々への同情を感じるよりも、やけに幾何学的な造りに興味を持ってしまった冷酷な自分に恥じ入るとともに、いや、それと引き換えに、この「日常」と「秩序」との関係性を見いだすにに至った。

これは、間違いなく写本「Flashbacks」に、還元されることになるだろう。

東京の途方も無い「秩序」
海外の途方も無い「自然」
その対比。

それが今回の写本の軸になるはずだ。

そして、これは大切な要素なので忘れないように書いておくと、
東京という秩序の中で生きる人間は、時として、「無秩序」をかいま見せる、ということを忘れてはならない。

人間はあくまでも生身で、そこには秩序だけではない「あそび」がある。
それを「日常」から全て排除してしまっては、やはり「僕の見た世界」を名乗ることはできないだろう。

終電が去ったホームのベンチで、酔いつぶれて寝ているおっさん。
「いつもきれいに使っていただいてありがとうございます」と書かれたシールが半分はがされたトイレ。

そんな整数で割り切れないものたちが、この日常には溢れている。
そして、人々の感情。
喜怒哀楽。
笑顔。
その全てが詰まっていて、初めて「日常」だと言えると思う。


僕の写真庫には「旅」の写真が詰まっている。
いや、「旅」の写真しかない、と言ってもいいかもしれない。
もうちょっと「日常」を増やそう。

そこに立って生きているのだから。

The Hiatus /Trash We’d love.