2013年12月31日火曜日

168. 2013年を振り返って(今年の漢字一字)

2013年、振り返ってみて、自分としての漢字一字を与えるなら、

「角」

だと思う。

仕事では、一つの転換点を迎えた。
日米英の3拠点に跨がるタスクを担当させてもらえるようになった。

自分の至らなさを痛感し、
英語力の弱さに愕然として、
反省の年であった。

と同時に、一部員として、知ることのできる情報量が圧倒的に増えた。
その上で、情報は力だ、と確信している。

情報は理解を深めてくれる。
自分の判断力や、アイデアをよりブラッシュアップしてくれる。
今、この時代に必要なのは、恐らく「天才的なひらめき」よりも「情報のスピーディーな掛け合わせ」なんだと思う。
これは、職人的な、求道者的な、孤高の発明ではない。
(※もちろん分野によります。ここでの発言は全て自分の知っている狭い業界、狭い世界での話です)

そのためには、

  • 情報をいち早く入手すること
  • 情報の本質(要点)、ベクトル(今後の成り行きの方向性)を自分なりに咀嚼すること

がまず必要で、その上で、


  • 異なる情報を掛け合わせてみること


を積極的にやってみる。
ここまでは、自分個人の動き。
その上で、

それを他者に話してみる。
他者の考えと混ぜ合わせてみる。
そうやって、結論へと向かっていく。

ここがチームとしての動き。

このような、一連の動作を行うために、とても動きやすい立場を与えられたのが2013年だったと思う。これは幸運としか言いようがなく、僕はその幸運に感謝しながら、縦横無尽に動き回りたい。

2013年に「角」を選んだのは、そういったターニングポイント(曲がり角)であったなぁという実感とともに、将棋で言う「角」のように真っすぐではなく、斜めに動き回ったなぁという印象があったからだ。

2013年は忙しかった。(振り返ってみると、2012年はブログの記事が45件だが、2013年はこれまで15件。これは自分のプライベートな時間が短かくなったことを示していると思う。)

今年は、
手を出せるモノには大抵手を出してみた。
思う存分振りかぶってボールを投げてみた。
顔を出していい場所には、全て出してみた。

そうやって複数のプロジェクトに併行して顔を出していくうちに、僕はなんだか会社の中で行われている一連の活動が「交響曲」のように思えてきた。

複数のプロジェクトが、日本、米国、欧州で動いていて、日本の中でも多数のプロジェクトが動いていて、それは自分の部署だけでなく、他部署でも行われていて、それらは「ある程度共通した方向」を向いて、一つの大きな交響曲のような様相を示している。

しかし、子細に見つめてみると、その譜面はまだ荒削りのように思えた。
ある意味、個々の楽団が勝手に自分の曲を弾いているような、そんな印象を受けることもある。

今、僕はこう思っている。

全体を束ねる楽譜が必要だ。
タクトを振る人間が必要だ。

実はタクトを振る人間は、誰だっていい。適切な人がやればいい。
しかし、きちんとした譜面を創るのは、ちゃんと考えないといけない。色々知った上で、それらをうまく組み合わせなければならない。ここに全てが集約されている。そういったことを担いたい、と漠然と思っている。

ところで、TEDというサイトで面白いプレゼンを見た。
ムーブメントをどのように起こすかというテーマで3分程の短いものだったが、実に示唆に富む内容だった。

要点は、「ムーブメントには、指導者が必要だと思われているが、実は指導者よりも(初めの)フォロワーの方が遥かに重要だ」ということだ。

ムーブメントの基本は、

簡単にコピーできる動作をまず考案する。
(例えば、簡単な踊りの振り付け、単純な主義主張)

次にリーダーが、その動作を恐れず勇気を持って行ってみる。
次に、最初のフォロワーがそれをコピーする。

この最初のフォロワーは、集団にその動作を伝播させる上で、非常に重要な意味を持つ。
つまり、「こうやったらコピーできるよ」と周りに知らせる役割を持つのだ。

もし逆に、フォロワーがすぐに現れない場合、リーダーが強力なリーダーシップと優れた勇気を持ってその動作を行っていても、いつまで経っても集団にその動作は伝播しない。単に、一人踊りになるだけだ。

無事、最初のフォロワーがコアとして機能をし始めると、次々とフォロワーが現れてくる。
そして、フォロワーが一定数を超えると、

「もうフォローしない方が、おかしい」

という状態に、集団が相転移を起こす。
なるほどなぁと思いながら、今年は暮れていく。

2013年12月25日水曜日

167.ハイレベルコミュニケーション

――社内でも、Dfについては賛否の声があったそうですね。
三浦:人材の配置ですとか予算の問題などで反対意見が出るのは現実的な問題としてこちらも理解できるのですが、中にはこの種のカメラ開発をネガティブに捉える人や考え方自体が後ろ向きだという意見もありました。
――それでも、上層部の最終決済が出て実現できているのですよね。
三浦:幸い、映像カンパニー・プレジデントの岡本がこの製品の企画に前向きであったことに救われました。
――先ほども出ましたが、富士フイルムのX100など、レトロな外観のカメラに人気が出ていたことも援護射撃になった?
三浦:そうですね、X100は2010年秋のフォトキナで発表され翌年3月の発売だったと思いますが、このカメラが市場からどういう評価を受けるかに大変関心がありました。もしX100があまり良い評価を受けなければ、このカメラの企画もだめかもしれないと思ったからです。結果的にX100の評判がよかったこともあり、ニコン社内でも意外といけるかもしれないという空気が生まれました。
(出典:デジカメWatchインタビュー 「ニコンDf誕生に迫る 枠組みにとらわれない“ニコンらしい”カメラ」Reported by 杉本利彦 2013/12/13)

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この件を見た時に思わず、ニンマリしてしまった。
なるほど、これは「コミュニケーション」ではないか、と。
僕はカメラを創る人々を尊敬している。
カメラを好きな余り、時に批判的になってしてしまうこともあるけれど、それでもやっぱり「創れる人」は素晴らしいと思う。
僕はX100を創り上げた人々を身近に知っている。
そして、X100のユーザーでもある。
これらの背景もあって、このインタビューは個人的に感慨深いものとなった。

2011年にX100が出たときは、その「明確すぎる懐古主義」がむしろ新鮮だった。(もちろん、そのデザイン性だけでなく、OVFとEVFを組み合わせたハイブリッドビューファインダーという全く新しい機能も、注目された大きな理由だ)
その後、様々なテイストが織り交ぜられながら、各社「やや懐古主義」路線にデザインの傾向を振ったように感じている。
パナソニックやOLYMPUSも、一部影響を受けているように感じられた。もちろんこれは僕の主観的な意見だ。
さて、このインタビューが素晴らしいのは、ニコンDfという希有な機種が、X100のスマッシュヒットに後押しされたという事実を素直に公表しているという点だ。

富士フイルム X100



ニコン Df

このインタビューを見た時に思ったことは、
「まるで、カメラを創る人々の集合体である企業が、「カメラというプロダクト」を介して、コミュニケーションを取っているようではないか。」
ということだった。
これをすごく引いたサイエンスの目線で見ると、ある企業が出したアイデアが他の企業に伝播していくような、原始的な、その実、非常に高度なレベル(当然、デジタルカメラというプロダクトは複雑な技術の集合体であり、その一つを創るにも、非常に多くのプロセスが関わっている。その点で、プロダクト1つでも「高度なレベル」と言えるはずだ)でのコミュニケーションを達成している、と描写できる。
これは素晴らしいことだと思う。
ホモサピエンスという知性は、こんなレベルでも会話できるのだ。
さて、次に気になるのは、今のタイミングであれば、間違いなく富士フイルムの新型機だろう。
この機種は、今のところ
  • 中央にEVFを内蔵した一眼レフスタイルのミラーレス機である
  • 防塵防滴である
  • 往年の機種FUJICA STに似た直線的でレトロなデザインである
  • 恐らく1月中旬には発表される
という噂に包まれている。
こうなってくると、気になるのはペンタ部分の処理だ。

FUJICA ST605N

FUJICAのロゴは直線基調のフォントで、その機体の直線性ともマッチしていて、実に納まりがいい。
ペンタ部のロゴの字体と、本体のデザインエッセンスとの整合性は、とても大事なものだ。僕はその点で、SONYのα7Rやα7をどうしても愛せないでいる。

SONY α7

これは完全に趣味の領域だが、まずSONYのロゴの位置が「そこかーい!」と突っ込みたくなるような高い位置にある点と、SONYという字体と直線的なデザイン性との微妙な関係がどうしても気になってしまうのだ。

一方、最近よく「ありきたりな」と揶揄されるキヤノンのカメラでは、実はロゴと機体のデザインセンスとがうまくマッチしていると言える。





Canon EOS 5D Mark III

Canonの丸みを帯びた独特な字体と、これまた丸みを帯びたボディーのデザインセンスがうまく一致していると思う。

さて、こんな風に、ペンタ部のロゴと機体とのマッチングは、デザイン性を語る上で妙に気になっている僕としては、富士の新型機がどのような路線でくるのか非常に気になってしまうのだ。

これまで富士はX100から着想を得て、レンズ交換式の「Xシリーズ」を創ってきた。
そのデザインセンスを振り返ると、

ハイブリッドビューファインダーを搭載したフラッグシップ機 X-Pro1
電子ビューファインダーを搭載したX-E2
ファインダーを排し、代わりにティルト液晶を配したX-M1
X-M1とほぼ同スペックながらより廉価な(通常のカラーフィルターを使用した)APS-Cセンサーを有する入門機X-A1


一見して分かるように、前面には「FUJIFILM」の会社名は一切載っていない。
実はFUJIFILMという社名は、軍幹部の上面にさりげなく描かれているのだ。この辺りは、ライカを彷彿とさせるデザインセンスだ。(恐らく参考にしている)


富士フイルム X-Pro1上面


前面に社名が載らないというのは、「ペンタ部がないレンジファインダー風スタイルだから」」というわけでもない。
というのも、例えばSONYの場合なら、

α NEX-7

上記のように、きっちり社名を全面に入れてきている。


OLYMPUS PEN Lite E-PL5 

OLYMPUSでもやはり社名は入れられている。
つまり、XシリーズでFUJIFILMというロゴを配さなかったのは、「敢えて」なのだ。
それがデザインを担当した人の「選択」だったのだろう。
それはそうだろう。
元々、「製品」は「第一の広告媒体」であり、どの会社のものか表した方が会社にとっていいに決まっている。だからこそ社名をロゴ化して、製品に貼付けるのだ。

さて、富士の一眼レフタイプの機種というのは、これまでも何機種か出ている。
それらは、多くがレンズ交換式ではない「レンズ一体型」の「ネオ一眼」というカテゴリのものだ。

一例を見てみよう。

FUJIFILM X-S1

一見して分かる通り、ロゴは現代的な社名の字体そのままに「FUJIFILM」と入っている。
やはり新型機でも、この通りなのだろうか?
曲線基調のボディーであれば、このロゴで全く問題ないのだが、FUJICAのデザインエッセンスを取り入れるとなると、なにか違和感を感じてしまうのは僕だけだろうか?

さて、冒頭のインタビューにはもう一つ興味深い点があった。

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――Nikon書体も、昔のまっすぐな書体を採用していますね。この理由は?
三浦:それは、このカメラのデザインに最も合った書体だからです。
――社内的に縦型書体を使うことへの抵抗はありましたか?
三浦:斜めの「Nikon」はニコンという会社のブランド表記ということで、製品においてもそれ以外を使用することは原則的にできません。
――そこを敢えて採用した?
三浦:このカメラを作る過程で大きなポイントの一つがこの部分であったかもしれません。こちらとしては、このカメラのデザインには縦型の書体がマッチすると思っていましたので、粘り強く話し合った結果、ペンタ部に限って例外的に認めてもらいました。デザイン上これが一番いいのは、ほとんどの方から賛同いただけると思っています。

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確かに通常のNikonのイタリックは、このDfには似合わない。この斜体は、現代的な曲線基調のボディーにこそ似合うと思う。

Nikon D610


もう一度、Nikon Dfを見てみよう。

Nikon Df


やはりこの直線基調のカメラには、この直線的なロゴでないとしっくりこないことがわかると思う。

さて、このNikon Dfの選択は、富士フイルムの新型機のペンタ部分のロゴに影響を与えるだろうか?

もしも「ボディーがFUJICA様の直線基調デザインであった場合」という前提条件において、あり得るパターンは、

  1. FUJIFILMという通常の社名ロゴでくる
  2. 他のXシリーズ同様、全面には社名なしで、ペンタ部にも何も書かれない
  3. FUJIFILMという社名は入るが、字体を直線基調に変える
  4. FUJICAブランドの復活で、FUJICAというロゴが入る

くらいかと思う。

可能性としては1が最も高いが、2、3、または4であったのなら、かなり購買意欲を刺激される。

ただ、最も危惧するのは、そもそもFUJICAのような直線基調のデザインをそもそも採用していないというパターンだ。この場合、もう確実に、通常の社名ロゴで来るだろう。
こうなると、よほどの高性能機でない限り、食指は動かないと思う。

さて、来年の発表が楽しみである。

(2013/12/13 08:00

2013年12月10日火曜日

166. 黒子のバスケ

三十代、四十代は一般的に働き盛りと言われている。
また、うちの父親が言うには、頭の冴え具合そのものは28歳頃がピークだが、その後の仕事は、経験の蓄積によって、結果広がっていくものらしい。

なるほど、32歳になって、最近、これら意見がよく分かるようになってきた。
なるほど、こういうことか、と。

仕事を形成する、組織、仕組み、システム、人(モチベーションや役割や立ち位置や思考の型などもろもろを含めて)、コミュニケーション、手続き、ヒエラルキー、物事のうまい進め方、失敗する予感、うまく行く予感(またそれが的中する確率)、そういったものが腑に落ちてきたような気がする。

そして、何より「プラン」がある。

こうしたい、こうした方がいい、そういったアイデアが生まれてくる。
そして、それを徐々にではあるけれど、実現させていける確信めいたものがある。

それは時にズタズタに引き裂かれて、「あ、うぬぼれだったかぁー」と思うけれど、最近はその「あ、失敗しちゃった」というものも含めて、どんどん進めていきたい気持ちになっている。

全てがうまくいくことなんてありえない。
失敗含みで、それでも正しいと思う活動を。
一つではなく、二つでもなく、五個、六個、七個と量を重ねて行く。
カロリー高く、ひたすら出力を続けていく。

思いつく限り、妥協無く、出し惜しみなく。

そうすると、沢山の出会いが生まれてくる。
そうすると、色々なことを教えてもらえる。
その金言が、また次のアクションのバックボーンになっていく。

みんな何かに問題意識を持っていて、
それぞれに「腹案」がある。
その腹案は、そのままだと点に過ぎないけれど、
それを聞いて、また別の所で、別の「腹案」と組み合わせてみる。
そうすると、点と点だった腹案は、歯車がかみ合うように、つながっていく。

自分の強みは、そういった「専門性のある人々」と意見を交わし、
それら意見をパーツとして、より大きな仕組みを「組み立てていく」ことのように思えてきた。

人の頭と頭を、ケーブルでつなげていくような行為だ。
この行為は、まるで組織の「ニューロン」をつなげるようではないか。

この方向性に、「線」があるように思っている。
そして、この方向性で行く上では、「黒子」のような気分がちょうどいいように思う。
あまり目立とうとせず、ささっと動いて、ある所で必要なことを仕上げて、
また別の所に出現し、別の仕事を仕上げていく。スパイのような、特殊部隊のような。

それぞれの場所には、それぞれのリーダーやグループがある。
成果はその人達のものでいい。
ただ、ひたすら黒子になって動いていく。

生来、目立ちたがりな性癖を持っている自分には、「黒子」くらいの気分の方がバランスいいのではないか。そんなことを思っている。



狙いは、そこにはないのだから。